コンピュータ上の空間に人工衛星「だいち2号」(ALOS-2)を3Dで立体的に再現し、質量を持った人工衛星の重力によって引き込まれていく水をシミュレーションし、滝を描いている。その滝を、実在の人工衛星「だいち2号」(ALOS-2) 実物大模型にプロジェクションマッピングした作品。
水は、無数の水の粒子の連続体で表現し、粒子間の相互作用を計算している。人工衛星にぶつかり跳ねあがった水の粒子は、人工衛星の周りを衛星し、蒸発し消えて行く。
そして、水の粒子の挙動によって、空間上に線を描く。その線の集合で滝を描いている。
そして、3次元空間上に立体的に描かれた滝を、我々が考える日本の先人達の空間認識の論理構造によって映像作品にしている。
今回は、Full HD10枚分の解像度によって、超微細まで描いた映像作品として表現した。
憑依する滝のコンセプト
古典的な日本の絵画では、川や海など水は、線の集合として表現されることが多い。そして、その線は、まるで生き物かのように、どこか生命感を感じる。
そして、彼らは実際、古典的な日本の絵画(川や海などで言うならば、まるで生き物のように見える線の集合)のように世界が見えていたのではないかと、僕らは考えている。
そこには、かつての日本の人々が、なぜ、川や海そのものに生命を感じていたような振る舞いをし、それだけではなく、なぜ、「我々自身も、自然の一部である」と考えていたかのような振る舞いをしていたのかという疑問へのなんらかのヒントがあるように感じるのだ。
そして、そこには、常識によって固定化された現代の客観的世界と、先人達が見ていた主観的世界を、再び統合的なものにしていくヒントがあるのではないかと思うのだ。
この作品は、まず、仮想の3次元空間上で、水を粒子の連続体として表し、粒子間の相互作用を計算し、水の流れを物理的にシミュレーションしている。そして、むかしの日本の空間認識では、目を通して得られる情報を脳が合成する時に、時間軸を現在よりも長くつかっているのではないかという我々の考えの基、そのシミュレーションによって決定された粒子の挙動が残像として残るかのように、空間上に線を描いた。さらに、それを我々が考える日本の先人達の空間認識の論理構造によって映像作品にしている。
もし、この作品を見た時、この作品の滝が物理現象を再現して描いているにも関わらず、その線の集合に生命感を感じるならば、先人達の主観的世界と言われる世界も、客観的な認識の一側面であるかもしれなく、そして、現代の客観的世界も、客観的な認識の単なる一側面なのかもしれないのだ。
そして、もし、ビデオカメラで切り取った本物の滝を見た時よりも、この作品の滝の方に、鑑賞者が、より自分と作品世界との間に境界線がなくなるような、まるで作品世界に入り込むような感覚、もっと大胆に言えば、その線の集合にすら生命体だと感じ、まるで自分が憑依するかのような体験をするならば、古典的な日本の「世界の見え方」と、そこから発生する「世界に対する振る舞い」とのつながりが見えてくるのではないか。
自然とは観察の対象ではなく、「我々自身も、自然の一部である」と考えていたかのような振る舞いは、単純に、かつての日本の人々の見え方が、川や海のような自然の一部すら生命体のように見え、自然の一部すら憑依してしまいやすい見え方だったから、つまり、自然と自分との境界がないような感覚になりやすい見え方だったからではないか、そんな風に思うのだ。
そして、大胆なことを言えば、現代、これだけ、「我々は、地球の一部である」ということを、声高に唱えられているのにも関わらず、そして、人々は、そのように頭では理解しているにも関わらず、なぜ、まるで、世界と自分との間に、境界線があるかのような振る舞いをしてしまうのだろうか?
パースペクティブは、見えている世界と見ている本人が完全に切り分かれ、はっきりとした境界ができ、見えている世界に見ている本人は存在できない。そして、現代、パースペクティブである写真や実写の映像などが溢れすぎているが故に、人々が、世界が自分とは違うものだというような振る舞いを起こしてしまうのではないか、そんな風にまで思うのだ。